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週刊 新選組!!!

第22回「その後の新選組」

[2011年11月 7日]

 

▲相馬主計の碑(東京都新島)

 

五稜郭が開城した明治2518日、
新選組らの恭順する弁天台場に新政府軍から予期せぬ指令があった。
 
帯刀の許可は弁天台場恭順の条件だったが、
両刀を差し出せ、というのだ。これは五稜郭降伏に際しては、
兵器をすべて差し出すことが条件とされたからだった。
 
五稜郭と弁天台場は、本支の関係にある。
総裁の榎本釜次郎が両刀を差し出したのに、
弁天台場がそのまま帯刀を続けるわけにはいかないとの理屈だった。
 
帯刀が許されることが恭順の決め手となった弁天台場は騒然となったが、
箱館奉行だった永井玄蕃ら幹部らの説得により、
決戦することなく生きながらえることになってしまった
無念の思いを抑え込んでいる。
 
515日、弁天台場恭順に際して、
新選組では新隊長が誕生している。
陸軍奉行添役として新選組と行動をともにしていた
相馬主計が桑名藩から新選組に入隊していた森常吉と交代し、
最後の隊長となったのだった。
 
18日、五稜郭から戦犯として、
総裁と副総裁の榎本釜次郎と松平太郎、陸軍と海軍を代表して
陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助の4人が箱館に送られてきた。
 
弁天台場からは箱館奉行の永井の他、
陸軍と海軍からは弁天台場において最も地位の高かった
陸軍奉行添役の相馬主殿、
海軍からは蟠龍船将の松岡磐吉の3人が五稜郭の4人と合流、
東京へ送られることになった。
 
松岡は獄死したが、榎本、松平、大鳥、荒井、永井の5人は
のち赦されて北海道開拓使に出仕した。
相馬は脱走軍幹部としてだけでなく、
慶応311月の伊東甲子太郎暗殺事件をも追及され、
これを理由に新島へ流刑。
赦免後はいったん新政府に出仕したものの、
のち東京で切腹してその生涯をとじたと伝わる。
 
次はすこし遡って明治251日から
土方歳三戦死の11日前までを取り上げますが、
先日、箱館急襲にあたり新政府軍が上陸地点とした
函館山の寒川と山背泊を船をチャーターして
海上から見てきましたので、次回はそのレポートをお届けします。
 
 

 

 

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