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週刊 新選組!!!

第二十一回「箱館戦争の終焉」

[2011年10月29日]

▲中島三郎助の墓碑(横須賀市東林寺)

 

明治2年5月14日、箱館病院への返書に徹底抗戦と記した

榎本釜次郎らだったが(有名なエピソードとなっている

『万国海律全書』はこの返書に添えられたもの)、

すでに五稜郭では戦意を失った将兵たちの脱走が始まっていた。

 

弁天台場恭順の翌日、五稜郭の唯一の支城となった千代ヶ岡台場が陥落する。

先に述べたが、元津軽陣屋が千代ヶ岡台場として再生するのは、

明治2年3月下旬のこと。4月2日付で箱館奉行並から砲兵頭並に転任した

中島三郎助の、文官としてむなしく討死するよりは、

どこか一か所の台場を引き受けて決戦したい、との思いによるものだった。

 

そんな中島の堅固な意思を物語るエピソードが残されている。

新たに機能することになった千代ヶ岡台場には、

脱走軍幹部が立ち替わり訪れている。

明治2年4月13日のこと、見分に現れたジュール・ブリュネは、

台場内にあった一発でも使用すれば割れてしまいそうな古い大砲を見つけて、

味方を傷つけてしまうから、と撤去を主将の中島に勧めた。

すると中島は最期に火薬を詰めて自爆する大砲であると応じたという。

 

そんな中島は、天然理心流の門人だった。

14歳で入門し、18歳の時、目録を受けている。

記録に残されているわけではないが、このことで

土方歳三とのなんらかやりとりもあったかもしれない。

 

中島は五稜郭からの退去勧告にも応じず、その翌16日午前3時、

圧倒的優位の新政府軍の攻撃を受け、2人の息子ともども戦死を遂げている。

 

五稜郭が降伏を決するのは、この翌17日のこと。翌18日に開城し、

箱館戦争はその最後を迎えた。

次回は箱館戦争終了後の新選組に触れます。

 

 

 

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