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季節と時節でつづる戦国おりおり

太閤堤と豊臣家の滅亡

[2012年2月14日]


「大坂城をつくったのは誰?」というクイズが昔あった。
その答えは「豊臣秀吉ではなく、大工さん!」。
懐かしくもベタなネタだが、今から5年ほど前に
「京と大阪を結ぶ淀川(宇治川)に秀吉が築いた
『太閤堤』の跡が新たに発見された」
というニュースが流れた際に
「秀吉が造ったんじゃなく、人夫さんが造ったんだ!」
と昔を思い出してニヤニヤしながら
ツッコンだ向きもおられたのではないか、と思う。


今から416年前の今日
(文禄5年1月16日、10月に慶長へ改元=1596年2月14日)は、
まさに秀吉が淀川への築堤を命令した日だ。
もっとも、ここで堤を造ったのは、
人夫ではなく大名たち、という話の流れなので、あしからず。


これより2年さかのぼった文禄3年10月には
加賀の前田利長が宇治川築堤を命じられている(『前田家譜』)が、
これは伏見城築城にともなうその足元の治水整備という
狭い範囲での工事だったものと思われ、
今回のそれは大規模に、宇治川が巨椋池
(大坂東部にあった巨大な湿地帯)を経て名を変え、
淀川として大坂湾へ流れ込むルートの
摂津・河内(現在の大阪府北部・東部)
両国においても築堤しよう、という一大プロジェクトだった。

こうして摂津国(現在の大阪北部)における工事は
毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の分担となり、
河内国(同じく東部)における作業は
東国の大名衆に課せられたのだが、
工事の詳細が決まった6月、広家は腰を抜かす事となる。

彼は摂津の北端・山崎で4,000間(76km)の割り当てに加えて
さらに1,600間(30km)もの超過分を引き受けるハメになったのだ。
全体の工事範囲はのべ15,281間(290km)だったというから、
実にその3分の1以上が広家にのしかかってきた計算である。

広家は「ひとかたならず大儀」と嘆き、
その費用は臨時の借金でしのぐ他ないと家臣に指示した。
「朝鮮の陣も続き、伏見城の工事も豊臣の奉行衆が催促してくる。
 我が家の安危がかかっているから、そのつもりでかかれ」
と、必死の覚悟を求める調子はまるで悲鳴のようだ(『吉川家文書』)。

さらに追い討ちをかけるように、
伏見大地震が発生して工事もさらに困難を極め、
広家は途端の苦しみを味わう事になる。

この割り当てを広家に取り次いだのが安国寺恵瓊で、
広家はのち慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで恵瓊を見捨て、
徳川家康に味方するのだが、
その一因はこの時の恨みによるものではないだろうか。
これだけ負担が重なれば、広家ならずとも
政権に嫌気が差すのも当たり前だ。

この工事は、秀吉が天下人の城としての大坂城と、
自分の隠居城兼政庁としての伏見城との
水上連絡を円滑にするために推進したと考えられるのだが、
それが皮肉にも4年後に豊臣政権の死命を制する結果となるのだから、
世の中はまことに一寸先は闇。

為政者としては、簡単に負担を課す事ができる相手に
安易に課税したりサービスを切り捨てる事ばかり考えていると、
やがてそのしっぺ返しは巡り廻って我が身に返って来るという
いい教訓なのだが、歴史を知らない連中には、わからないのだろうなぁ。